ちょっと三途の川見てきていいですか


この文は、文学フリマで『ちょっと三途の川見てきていいですか』という合同誌に参加させて頂いた時のものです。

若干の修正はしてありますが、いつもの記事とかなり違ったものにはなっているので、ご了承くださいませ。









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めりさんからこの合同誌のお話を頂いたときに、即決で参加したい!と思った。「ちょっと三途の川見てきていいですか」、とっても素敵なタイトルだと思った。







17歳から19歳の、まさに青春、といえるはちゃめちゃに楽しいであろう時期に、統合失調感情障害(統合失調症と躁鬱の症状が両方ある病気)を発病してから毎日発狂するほど死にたかった。というか、現に発狂しまくっていた。ただひたすらに辛かったので、『死ぬ』ということ以外は何も考えて居なかった。



300錠を超える安定剤のOD、お風呂での瀉血、トラックへの飛び込み、あと少しのところでマフラーの結び目が解けてしまった首吊り、4回自殺未遂して、まぁ4回とも失敗た。

今思うと何故なのかは分からないけれど、19歳のうちに絶対に死にたい、という思いが強くあった。

まだかなり暑い夏の日の夜、今度こそ、今度こそ、今度こそキメるぜあの世行き!!と、意を決して挑んだのは練炭自殺だった。




当時、ツイッターのフォロワーがかなり居たので、「一緒に本気で死んでくれる人居たらDMください!」みたいなことを、軽い気持ちで呟いたら(今思えば、死にたいなら一人で死ねや!と思うが、やっぱり一人では怖かったし、なにより死ぬ時まで一人ぽっちは寂しかった。)
ツイッターの通知が鳴りまくって、かなりの量のメッセージが来た。ツイッターは死にたい人に溢れているらしかった。


男の人は身体目的かもしれないし、もういい加減にヤラれてポイ、はゴメンだ。年の近い女の子がいい。そう思った私は、適当に3人くらいと連絡を取って、結局、大阪に住んでいるという少しだけ年上の女の子と一緒に自殺することにした。


最後だから、と、ホストクラブに行って散財をした。風俗の仕事をしていたのもあって、お金はたくさん持っていた。

どうせだから、使いきっちゃおうか、と、どうせ死ぬのに、欲しいものをたくさん買って、普段食べないようなものを食べて、高いお酒を飲んだけれど、一つも楽しくなかった。


いざ練炭自殺を決行するまでにはめちゃくちゃに色々あった。

手持ちの睡眠薬が心許なかったので、フォロワーに売ってもらったり、声をかけてきた人に、一発ヤらせる代わりに薬を大量に貰ったりした。

新幹線で大阪に着いたはいいけれど、私たちは車の免許すら持っていなかったので、小さなバイクに乗ってホームセンターで七輪と炭を購入し、駅まで出ると電車に乗り換えて、二人で抱えて運んだ。七輪二つと炭を抱えて電車に乗って、よく通報されなかったなぁと思う。



通常、練炭自殺は車の中でやることが多いというが、車が無い私たちはラブホテルで決行することに決めた。


受付でなにかいわれるんじゃないか、と思っていたけれど、にこやかなおばちゃんに鍵を渡されて、部屋に入り、準備をした。遺書を書いて、お酒を飲んだ。どうせ死んじゃったら関係ないし、ピザでもとろう、と、宅配ピザを食べ、はしゃいだ。


「そろそろ、やろうか」と言った。すると、女の子が、「やっぱり、こわい!」と言い始めた。


こんなところで引き返されても困る。私はお金も使ってしまったし、ようやくここまで来たんだ。私は、絶対に死にたい!死ぬしかない!死しか道は無いのだ!


私は、「それじゃあ、私は一人でもやる。自殺道具一緒に運んだんだから、あなたは自殺幇助で捕まるね。いいの?」と言った。

すると女の子は、「やっぱりいっしょに死ぬ…」と泣きながら言った。


そんなこんなで決行に至り、お風呂場にガムテープで目張りをして、ものすごい量の睡眠薬をお酒で飲み、着火剤に火を付けたところで、あっという間に意識が飛んだ。




まぁ、今回も例のごとく失敗し、目が覚めたら大阪のド田舎の閉鎖病棟に居た。


今思えば、一緒に(むりやり)自殺未遂をした女の子が死んでなくて、本当に良かったと思う。でも、それほどまでに、私は死ぬことに必死で、早く死ななければいけない、と焦って居た。








少し入院中の話をしようと思う。



大阪の田舎の、その病棟のなかには、マトモに話が出来る人が3割、そうでない人が7割くらいだった。

聞き慣れない関西弁、飛び交う怒声と喚き声と悲鳴やら喘ぎ声。

閉鎖病棟に入るのは初めてでは無かったけれど、ここの病院にはまあ驚かされた。



最初のうちは保護室だった。手足も拘束されて、尿に管を入れられ、睡眠薬で朦朧とする意識の中、なんだか母親が泣いて喋っているのが聞こえてくる。


これは、夢?いや、違う、あ、私、また失敗しちゃったんだ…と思ったら、どんどん涙が溢れてきた。

泣いている母親に、こんな娘でごめんね、と謝りたかったけれど、まだ薬が抜けていないのか、全く唇を動かすことが出来ずに、目を瞑った。




尿の管を取って貰い、すっかり身体が回復したあとも、トイレも丸見えの犬小屋みたいな部屋だった。ずっと寝ていると身体が気持ち悪くて、のそのそ犬小屋の中を歩き回っていると、リビングルームから他の患者さんたちがが近寄って見てきて、動物園のパンダにでもなった気分だった。


まあそれも少しのことで、様子を伺いにくる看護師さんに、「もう大丈夫です」「反省しています」と伝え続けた結果、暴れず、発狂もせずにじっとして居たのもあってか、すぐに4人部屋に移された。

病棟の中で最年少の19歳、当時まっきんきんの金髪頭の私は、患者さんたちからしても物珍しかったらしく、たくさん話しかけられた。



「なぁなぁ、ウチな、妊娠してんねん。赤ちゃんおるんやで、お腹ん中に。多分4年前にレイプされた時の子やと思うんやけどな、赤ちゃんに罪はないから産みたいねん。あ、なぁなぁ、大麻ってやったことある?シャブは?うちバナナ食べれへんのやけど食べる?」


「タバコ吸われへんやろ、こうやって鉛筆の芯の方を咥えてな、スーっと吸ってハーっと吐く、そんでな、そうするとな、それで、それでな…あぁもうダメだ…」

「だれか看護師さんよんでー、また〇〇くんが鉛筆で腕刺してもうたでー」




毎日、みんなの居られるリビングルームの廊下の端の方でセックスしようとして怒鳴られてるカップル、私を娘だと思って追いかけ回し、トイレまで付いて来るおじさん、オムツを履いて赤ちゃん言葉で話す29歳の太ったお姉さん、人をカマで斬ってしまい捕まりたくないからおかしいふりをしてるらしいお兄さん。水依存症でトイの水を飲んでしまうおじさん、暴れて叫び踊るおばあちゃん、一人で呪いのノートを書き続ける女なんだか男なんだか分からない人。



こんな病院だったと話すと、周りの人から「ヤバいね。」と言われたけれど、私はこの病棟が面白くてしょうがなかった。



病棟では、みんな、口を揃えて「死にたいなぁ」と言った。

まともに会話ができない人も、うんうん、と頷いていた。


私も、「死にたいね」と言った。



びっくりするほどやることが無かったので、暇つぶしにみんなで院内で麻雀をしたり(みんなイカれてるもんで、ルールもクソも無かったけど)、ものすごい色合いで塗り絵をしたり、何語なんだかすら不明な内容のお手紙を書きあったりした。


眠れない日は、誰かが飲まずに隠し持っている睡眠薬を、他の薬や、お菓子に交換していた。(薬は看護師さんの前で飲んで、口の中に無いかまでチェックされたが、飲むフリをして、わざと落として後で回収したり、コーティングされた睡眠薬なんかだと、舌の裏なんかに隠してあとで吐き出して保管したりしていた。)


病院のご飯は味が薄くて足りなかったけど、拒食症の痩せほそったお姉さんが、看護師さんの目を盗んで、私のお皿の中におかずをくれた。

こっそり洋服の中に隠したバナナやみかんを、女子トイレで交換したり、「今女子トイレの中にヨーグルト置いてきたから、後で回収しーや。ウチヨーグルト嫌いやねん。」みたいなこともあった。


お風呂は看護師さんが見守っている中で2人ずつ入った。浴槽もあったが、誰かがすぐにおしっこを漏らしたりするので、私は入らなかった。

身内に持ってきてもらったりすると、良いシャンプーや洗顔料を使うこともできたが、可愛いパッケージや良い香りのするものはすぐに盗まれたので、みんなと同じものを使っていた。



母も父も、新幹線で大阪まで毎週来てくれた。当然だけど、なんだか疲れているようだった。私は、なぜ死んではいけないのか分からず、次は飛び降りるか、なんて懲りもせず考えて居た。




少し経って20歳の誕生日を迎えたとき、看護師さんや、病棟のみんなに「おめでとう」と祝って貰った。

よく一緒にご飯を食べていた一人のお姉さんだけは、耳元で「次の誕生日は、迎えることなくちゃんと死ねたらええな」と言ってくれて、嬉しくてその場で泣いたのを覚えている。



なんだかんだで、院内のみんなと仲良くなった頃、私の退院が決まった。




「もうバカなことは辞めにして、しっかり生活してなー!」

「いつでも戻って来てね。」

「ほんとに寂しい。私も退院したい。」

「裏切りもんや!死ねー!殺してやるー!」


様々な言葉で見送ってもらった。

迎えに来た母親にわがままを言って、病院の喫煙所で、買ってきてもらったタバコに火をつけ、久しぶりに摂取したニコチンでグラグラと回る頭で、これからどうしよう、と考えていた。







家に帰ってから、ずっと、ぼんやりとしていた。

親や友達は泣いて怒り、そして大人しくなったように見えるらしい私を見て喜んで居たが、なんだかずっと釈然としない気分のままだった。


久しぶりに帰ってきた、家を飛び出した時のままの部屋に座り込み、なんとなく、仲間のようだと思っていた人たちが居たあの病院に戻りたい、と泣いたりした。



「次の誕生日は迎えることなくちゃんと死ねたらええな」



その言葉がずっと頭にあった。死ぬことを肯定されたのは、生まれて初めてだった。





何故、みんな口を揃えて死ぬなと言うのか?


何故、私はこんなにも死にたいのか?




動物の中で、自らの死のタイミングを選べるのは人間だけだ、という言葉をどこかで見かけたことがある。閉鎖病棟には、自分で死ぬべき時を選んだ人たちがたくさん居た。



どうして、それがいけないというのか?



普通の人であれば、みんな、死が来る時をじっと待つのかもしれない。


でも、神に定められたときだとか、病気なのか事故なのかはたまた老衰なのか分からないが、じっと死を待つより、自分の人生の中で自分の納得のいくタイミングが来たとき、死を選ぶのはなんだかとても有意義なことのような気もする。



私たちは、俗にいう『頭のおかしな人たち』である。

いい意味でも悪い意味でも、普通の人と違う。なら、一般的な考え方をする必要は無いのかもしれない、と思った。



お姉さんが誕生日の時に言ってくれたあの言葉に、特に意味はなかったのかもしれないし、それが正しい言葉なのかは分からない。

でも、死を肯定するその一言で、私は、誰が悲しもうと、誰に迷惑をかけようと、いつ死んでもいいのだ、と思った。

それを、自らが死を選ぶことを、認めてくれる人が居るんだ。気持ちを共有できる人が居たんだ。


そう思ったら、急に気が楽になった。

辛くなったら死ねばいい。いつでも私は死ねる。私は、私の身体は、生は、私のものだ!

高いビルの屋上から飛び降りるでも、電車に飛び込むでも、なんでも、今度こそ確実な方法でいくらでも死ぬことが出来る。

無茶苦茶かもしれないけれど、死んでしまったら、誰に迷惑がかかるとか、誰が悲しむとか、後のことは関係などないのだ。



私は、あまり『自分の意思』がない人生を送ってきた。

その私が、『死にたい』という意思を、持ったのだ。

その意思を、大事に大事にしてやろうじゃないか!





誰になんと言われようが、病気だからなのかとか、そこまでしてでも死にたい理由だとか、そんなのは分からない。


死ななければいけない!


私の人生で正しいのは死ぬことであって、それに真っ直ぐ進んでいかなければならないのだ!



この思考は、今も変わらない。自分の思うベストなタイミングで死ぬ事が私の人生のゴールだ。

自分が初めて持った強い意思だ。誰に何も言わせまい。



自ら死を選ぶことを肯定された時、認めてもらえたとき。

私はいつ死んでもいいんだと思ったとき。

それを間違ってないと言ってくれる人が居たんだ、と思ったとき。


その瞬間を胸の奥に大事にしまった。そうしたら、なんだか死ぬのはもうちょっと先でも良い気がした。






あれから2年が経った。今でも私は病気に苦しみながらも、まだ生きて、死ぬことなくこの文を書いている。


あれから、リストカットや死なない程度のオーバードーズはしたものの、自殺したい衝動を行動に起こすことは一度も無かった。


『死ぬ』ということに、拘らずに人生を送れるようになった。

それは、何故なのかは分からないけれど、


『死ねるとええな』の言葉に、すごく愛を感じたからかもしれない。

『辛かったね』『頑張ってね』『もう休んでいいんだよ』そんな風に聞こえた。



その痛みが分かる人に、その痛みを肯定してもらったら、すごく、すごく、自分に自信が持てた。



私たちは、普通になれずにもがいて苦しむけれど、『普通になる必要は無いよ』と肯定してくれる人が欲しいだけなのかもしれない。




こうやって改めて文章にしてみると、ちょっと変な人生だけれど、人より面白い人生を送っているような気がしてきたりもする。



私のこの生きている時間、人生に、もうちょっとだけ付きあってやるか、といった気持ちになれたのも、大阪の閉鎖病棟のお陰かもしれない。


苦しんで、呻いて、発狂して、殴って蹴って物を壊して、自分の身体をカッターで切って、精神薬をたくさん飲んで、時に暴れて、そうやって生きて、そんな私でもいいじゃないか。

もうどうにもならなくなった時は、アッサリ死ぬ覚悟がある。それってすごく強みじゃないか。



今でも、『死にたい』と思うことは、もちろんある。

『明日になったら』『来週になったら』


そういう風に、お姉さんの言葉を胸にして、『さぁ、いつ死んでやろうかな!』なんて考えながら、私は今日も生きている。





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主催者のめりさん、素敵な企画をありがとうございました。


それでは、また!